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2008年03月27日

いのちに触れる

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このあいだの満月と虹

このごろ、わりあい遠くまで、ときどき介護とリハビリの仕事に出かけている。お相手は、以前から知っていて、たまにお会いすることのあった、友人の母上だ。

今は入院されているが、病院の治療だけでは充分な回復が望めそうにないというので、何人か、その方面の仕事をしていたり、勉強をしているものが関わって、その母上のリハビリをさせてもらっている。

というよりも、勉強をさせてもらっているといったほうがいいか。とくにぼくは、精神病院のリハビリ科に勤めていたとはいえ、身体的なリハビリに関してはずぶの素人だ。まわりの専門職や、母上本人にどうしたらいいかを聞きながら、日々勉強している。

解剖学的なことなどは、ごく基本しか勉強していなかったので、人体の驚異をいまさらながらに感じる。手や足はとりわけ複雑な構造をしており、腱や靭帯、骨、筋肉が複雑に絡み合っている。そのひとつひとつに名前がびっしりと付けられているのだから、ますます驚きだ。このような情熱は、いったい誰が発祥なのだろうか。医学の始祖といわれるヒポクラテスなのか。

リハビリには、もちろんそうした身体的な知識やスキルがなくてはならないが、それにも増して、とくに言語的なコミュニケーションが難しい場合などに、「呼吸を聴く」「表情を読む」「気を感じる」ことなどが、とても大切だとわかる。

病気であるとは、生命力が弱り、気力も弱っていることが常なのだから、荒っぽい接し方は、とくに本人にとっては負担だろう。時間感覚にしても、日常よりもはるかにゆっくりした時のなかに生きていることが、その母上に接していて実感されるのである。

そうして、じっくり付き合っていると、こちらも非常に敏感になり、また時の感覚も速度が落ちていく。雑多ないろいろな思いが落ちて、静かな病室の空気となじむと、そこに息づいているいのちと、ここにある自分の命との呼応が感じられる。

日常では、言葉による伝達でさっさと済ませてしまってことが、それができない状況に置かれて、初めて言葉を超えた呼吸のコミュニケーションというか、そういう「息合わせ」に心を集中させるようになった。一種瞑想的な気持ちになることもある。とくに手を当ててじっくりとそこに気を流していくような静かな時間に。

もうすぐ桜が満開になる。そのとき、病室の外に出て、みんなで花見をする予定だが、母上にとっては、久しぶりの外である。ぼくはちょっとだが、自分の母に対してできなかったことを、今しているような錯覚(たしかに錯覚だが)を覚えることがある。
posted by jksk at 01:33| 神奈川 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | ☆相模平野だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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