SHINTOKOROZAWA ON A BRILLIANT DAY
毎週火曜日に始めたフリースペースでのミーティング、水曜日と木曜日の精神障害者地域作業所での当事者ミーティング、出張して行なう当事者ミーティング、ヨガ合宿や仲間の間でのトーキングサークル。。。このごろ、いろいろなミーティングを通して、生々しい、生きる実感を、参加者と一緒に取り戻そうとしているように思えてきた。
それは、ひりつくような痛みだったり、ざわざわする不安感だったり、そこしれない悲しみだったりもする。でも、そんな感覚は生をくっきりしたものにする。
結局、障害や生きづらさを乗り越えて社会復帰するのではなくて、回復とは、それらを携えながらなおかつ生きていくということじゃないだろうか。その過程を続けることが、自分回復の道ではないかとこのごろよく思う。道だから、どこかで終点があるわけじゃない。仲間と話すうちに、そこに連れ戻されて、こりゃ必要なのは持久力だなとつくづく感じて圧倒される。
精神的な病気になると、まず生きることよりも病気に忙しい。精神科の病院勤めをしていたころ、患者さんによくきいた。これからどう生きていくつもりなのかと。長期入院をしている人ほど、「三食昼寝つきだし、働く必要もないし、ここで死ねれば言うことねぇや」という答えが多かった。これには返す言葉を失う。あんたの人生はどこへいったんだ!?
自分が生きる前に病気の魔力に支配されてしまう。治るともいえず治らないともいえない精神疾患をもちながら生きるうちに、生きる欲望が年ごとに萎えていって、やがて医療や福祉に依存し続ける楽な生き方に安住してしまう人が多い。それを制度や行政や専門家などのせいにすることはたやすいし、ぼくも周りのせいにすることがある。でも、それはいい気分じゃない。
病気や障害を人生がうまくいかない言い訳にして、まわりの悪口を言い続けていると、精神疾患とはべつに魂が病んでいく。人生を失っていく。「自分の欲求は何か、自分は何を実現させたいのか」。一人称でそれを語る言葉を手に入れないと、「あんたの心の中の制度にいいようにされてしまうよ」。
結局問題は病気じゃなくて、自分の生を生きることなのだ。自分の病気や障害について、こうしてもらおうではなくて、こう生きたいからそうなるように工夫したり、援助を頼んだり、はばむものの正体を明らかにしたり(たいていは心の中にある)。自分の頭とからだを使ってそうしていくのは、大変なことだけれど、それが「人並みの苦労」じゃないだろうか。
その苦労を当事者から取り上げてきた周りにも責任があるのはいうまでもない。しかし「当事者」という言葉を使えば、だれでも人生の当事者なのだから、病気・障害の有る無しはおいて、だれもが生きていくための苦労は当然引き受けなくてはならないものだ。
いつまでも病気・障害の苦労(というより苦痛)にとどまり、生活や働くことや人との関りの苦労を味わえないこと。このほうが深刻な「障害」にちがいない。そして生の欲求を実現しようとせずに、いのちの光が弱るままに放置すること、これは人類共通の病のように思える。



考えさせられます。
なぜ人々は「生の欲求を実現しようとせずに、いのちの光が弱るままに放置する」のでしょう・・・。なんでなんだろう。
こんなquoteを思い出しました・・・。
“Death is not the greatest loss in life. The greatest loss is what dies inside us while we live."
ジンジンと伝わってくるよ〜。
僕はまだもがいている部分があるけど・・・。
明日、よろしくね。
ぼくもいつもブログを読ませてもらっています。引用は、あのGHQのマッカーサーも同じようなことを言っていました。彼のことはともかく、真実の言葉ですね。
いのちを光らせましょう。
うん、やっぱり経験した者でないとなかなかわからないこともあるね。でも、その体験はきっとだれにも伝わる言葉になるよ。