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2011年08月13日

水辺にて

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お盆第一日、公園の池の傍で水遊びするわが子を見ていると、
自分が年寄りになったような気がし、幼子になって一緒に遊んでいる気もする。
からだが軽すぎて心もとない気がするのは、先祖の墓がことごとく空っぽになっているからなのか。

水辺には、鳥や犬だけではなく、老婦人や、若者のカップルや、子連れの母親たちが訪れては、
大きな波紋、小さな波紋を残していく。
その中のいくつかに、ぼくの小さな男の子はしゃがんで遊ぶ。

家事と子育てと仕事と畑を交互にやっていると、起きてから寝るまで隙間がない。
隙間がないと、自分がだんだん希薄になっていく気がする。

最初は、そんな時を惜しんでいたが、惜しむ間もなく時のほうが先にずんずん進んでいく。
「自分の人生」「自分の時間」という概念は、独身者のものである。
さすらいや、きまぐれという美しいストーリーも独身者の夢想である。

それらを決して捨て去ることができたわけではないが、ぼくの質よりぼくの現実の方が今は強力だ。

ビートが連れてきた詩や唄とともに新大陸を放浪してきた詩人は
小さな島国にたどり着き、バック・パックを鴨居に吊り下げて、
人生を美しい夢としてばかりではなく、苦くも倦むこともあるものとして、
灰のピットを穿って、小さな火を焚くことにした。

ストーリーの仕立てそのものすべてが、「男」という近代の一症状が生んだものだった。
男のカッコを外してみれば、そこには、ちんちんをつけた男の子たちが、一緒になって水辺で遊んでいるばかり。お母さんは、二人がいつまでも帰ってこないのを、お玉で肩を叩きながら待っている。

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三年もかけて考えるなんて、とおもった詩。
自分が洗濯物の一枚一枚になるまでは、なかなか永い秋(とき)が必要なのだ。
もうすぐ三省忌が来る。

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洗濯物    山尾三省

洗濯物をたたむほどのことに
人生はあるか
三年をかけて
そんなことを考えていた

この頃は
もう考えない
夕方
よく乾いた洗濯物を取り入れ
まだ陽の匂いの残るそれらを 正座して
一枚一枚
なるべく丁寧にたたんでいく

その日
その秋(とき)の私の人生が一枚一枚たたまれて
さわさわとそこに重ねられて

山にはもう
十三夜の月が出ているのだ
posted by Dah at 00:00| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Mixiからの移行日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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