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2011年07月23日

人間はどこまで自然か?

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■出生前診断で異常発見し中絶、10年間に倍増
(読売新聞 - 07月22日 14:32)

初めてニュースを引用して日記に書いてみる。
こういう診断について聞いたことはあるけれど、受けてみようと思ったことはなかったな。

我が子がもし障害をもって生まれたら、ということは妻の妊娠中にたびたび考えて、覚悟を決めた(はっきりとは覚悟できずに決めようとした)覚えがある。そうであったらどんな種類の障害でも、引き受ける努力はしようと。

ただし、その選択が良いと一般化はできない。そう簡単には割り切れない問題だ。重い障害がわかって中絶した親がいたとしても、その気持ちもわかる。そこまで引き受けきれるのか? という迷いや自信のなさや子どもの将来を考えた場合の不安は、出生前には誰しも抱くものだと思うから。

しかしどうだろう、これから先診断の精度が際限なく上がっていって、その子のIQや性格、将来発病しやすい病気の種類などもわかるようになり、それによって産み分けされるようになっていったら。

障害の程度や種類如何によるのかどうかも難しい。ぼくは当事者ではないから理解することは難しいが、ダウン症の有無によって産み分けするようなケースはどうなのだろう? 現在ダウン症を持っている当人や家族はどう感じるだろうか。ダウン症の人間は生まれない方がいいという前提を感じさせる事例を作り出すことは。

また、精神障害はおもに思春期以降に発病する中途障害が多い。将来脳の研究がさらに進んで、胎児の段階で精神病の発症率がきわめて高いことが予測できるようになったら、やはり早い段階で「間引き」され、その結果として社会にほとんど精神障害者が存在しない、などということが起こるのだろうか?

障害をもつ人にたいして、出生前なら殺してもいいということになるだろうか?

我が子は今のところは障害があるようには見えない。しかしこれから先のことは未知である。父のように、思春期に精神病を発病しないとは限らないし、何らかの依存症や、難病にかかったり、事故に会う、犯罪に巻き込まれるなどがないとは言えない。

それではそれらのことが起こらないように、予防的に殺しておきましょう、と命を取る親などいない。生まれたあとのことを考えて、障害があるからと予防的に殺すことも、これに近いように思える。障害自体がまるで決定的な不幸であるかのように。不幸を生み出すのは障害を不幸と結びつけるすべての作為ではないだろうか。

しかし、このように今ぼくはコンピューターの前に座って書いているのであって、じっさいにお子さんは重度の障害を持っています、どうしますか? と医師に訊かれた親がいたとして、その親の決定がどうあろうと、ぼくは何も言うことができない気がする。それほど当事者には重くのしかかってくる問題だ。

いのちをめぐっては、技術の進歩に伴って即断できない問題が増えている。
安楽死か延命か、臓器移植、遺伝子治療。。。
人間のいのちは野の花のようにただ咲き散っていくことはできないのだろうか?

posted by Dah at 00:00| 神奈川 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | Mixiからの移行日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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