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2009年03月06日

ぼくと瞑想

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南インド・パラニのムルガン寺院にて


ある人からヴィパッサナ瞑想の体験を聞かせてくださいと頼まれ、まとめるというほどではないが、ぼくの個人的な体験を書いてみた。少し長くなるようなので、時間がある方はお読みください。

ヴィパッサナという瞑想法については以下を参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/ヴィパッサナー瞑想とここに入れる

瞑想という言葉をはじめて知り、実際にやってみたのは1992年のことだった。ぼくはピースウォークで中米を縦断していた。

それはパナマからワシントンDCまで7500キロを10ヶ月かけて歩く、気の遠くなるような計画だった。毎朝起きたら床を取り上げ熱帯の灼熱の路上を30〜40キロ歩く、その繰り返し。ゴールのことなど考えも及ばなかった。

その最中に一冊の本に出会う。フランスに亡命したヴェトナム僧のティク・ナット・ハンによる ”Peace is every step” (邦題:微笑みを生きる)。それを読む一方で、歩みを共にする仲間にハン師のお弟子さんがいて、彼から一歩ごとにていねいに歩む瞑想のことを教わった。

「歩く瞑想」は、目的地に向かって急ぐのではなく、一歩一歩を到着点として味わう瞑想だ。仏教で「無願」と呼ばれるプロセスに生きるこの姿勢は、多くの瞑想が採用する「今ここに生きること」とも言い換えられる。

これを知ってからぼくは、ピースウォークでの毎日の歩みを一歩ごとに慈しむよう心がけた。そしてそれによって育まれる幸福感こそが、平和の源なのではないかと実感し始めた。

帰国後翻訳を手がけたある平和運動家の著書の帯に、ガンジーの言葉「平和に至る道はない、平和こそが道である」を認めて、ぼくはその思いをますます強くした。

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そのティク・ナット・ハンの瞑想のもとになったのが、上座部仏教や他の仏教の瞑想法の基礎をなす「ヴィパッサナ瞑想」だった。それ自体は非常に純化された集中的な瞑想なので、なかなか日常的に行うことは難しい。ティク・ナット・ハンはその伝統を現代に応用できるように噛み砕いて解説していた。

友人に誘われたこともあって、京都のヴィパッサナ・センター、ダンマバーヌに行ったのは帰国後しばらくしてだと思う。ヴィパッサナにも代表的な流派がいくつかあるが、ゴエンカ師によるそのコースは10日間をまんじりともせずに坐り続けるハードなもので、修行好きのぼくは気に入ってしばらくその方法に従って瞑想をしていた。

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ヴィパッサナでは、今ここに体験されるあらゆる事象(肉体・感情・思考etc)を受け止め、観察し手放していく。感覚が鋭敏になっていくにつれて、皮膚感覚だけではなく、内臓の動きや気の流れまでも感じ取れるようになり、一秒の間にいかに多くの思考が生じ滅していくかが経験的にわかってくる。

すべては移り行き、留まるものは何一つとしてない。自分というアイデンティティーでさえ、膨大な思考の流れの中で生じ滅する、断続的な「思い」でしかない。この瞑想は、仏教で言う「所行無常・諸法無我」を実体験を通じて理解していくものだ。

ダンマバーヌの瞑想体験で印象的だったのは、痛みについて観察したときのことである。長時間動かずに坐っていると決まって脚が痛くなってくる。それでも動かさずに延々と坐り続けたら何が起こってくるのか? --思考の渦である。

「このまま脚がダメになってしまわないか、何のためにこんな事をしているのか、いつ終わるのか、止めたら叱られるのか、こんなコースを選んだ自分が馬鹿だったのか、楽になりたい、休みたい、苦しい、無意味だ、こんな瞑想は役に立たない。。。」

痛みそのものというより、あらゆる思考が襲いかかってくる。その結果、痛さもますます増大して苦しくなり、居ても立ってもいられない状態になる。脂汗でびっしょりになり、体が燃えるように熱くなる。

その感情、思考、肉体感覚すべてをそのまま受け止め、ただ手放す。一切を変えようとせず、変っていく一切を観察し続ける。それがこの瞑想の方法だ。

覚悟を決めて「膝の痛み、汗、悪寒、恐怖、考えている、逃げたいと思っている、いつ終わるのだろう…と思っている…」とひたすら受け止め続ける。思考に巻き込まれずに集中していつまでもそれを続けると、最後には痛みは、断続的に起こるパルス―信号と感受されるようになり、苦痛に感じなくなった。

精神的に嫌悪感で反応しなくなると、痛みは「ある感覚が生じている」というように冷静に受け止められるようになる。「今ここにある感覚」と観ていったとき、それは悪いものでも良いものでもない。痛みの実態は分解されてなくなってしまう。後に残ったものは、ただ今、ここにある今、今の連続である。

恐れがなくなったそれはすばらしい体験で、ただ歓喜に包まれたことを憶えている。時間は消滅し、永遠にその歓喜に留まっていられるとさえ感じた。しかしヴィパッサナでは、歓喜にとどまることもまた執着とみなし、それをも手放してひたすら観つづけることをすすめる。

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その後ヴィパッサナにも様々な方法があると知り、ぼく自身は通訳のご縁をいただいた「マハシ系統」のヴィパッサナ瞑想を行うようになる。この流派の特徴は、心の中で体験していることを言語化して念ずる「ラベリング」と、歩く瞑想を含む日常動作のすべてを瞑想の対象とすることだ。

ただ坐っているより身体は楽だが、食事やトイレ、風呂、道場での生活のすべてを瞑想にする点で、これは非常にラディカルな方法である。

心の中で四六時中、「歩いている、坐っている、手を洗っている、空腹感がある、右足を前に出している、〜〜と考えている、〜〜を感じている、、、」などと延々と唱え続けるのだ。このマハシ派の瞑想中に気づいたことをひとつ上げたい。

最終的にはここでも思考の観察に帰結する。瞑想が進むにつれて、すべての連続的な感覚・判断は思考によって創られるものだとわかってくる。思考がなければ「意味のある世界」は生まれないのだ。

たとえば、蝉の声がする。それ自体はただの音だ。そのとき「音」とラベリングして手放すと、蝉の声は瞬時に消え、何も残らない。それは本質的に空気の振動に過ぎないのだから。

しかし音を受け止めた耳が(正しくは脳が)、あ、これは蝉だ! と過去の記憶を参照して考えたとたん、ごく短時間のうちに「もう夏だ、今日は暑い、喉が乾いた、そういえば今午後3時だ、あと何分坐るのだろう、さっきより疲れる、集中できない、音があるとじゃまだ、、、」など、ものすごい量の思考の渦に飲み込まれる。

これを、思考の雪だるま現象、とぼくは呼んだ。何かの刺激をきっかけに、人は今ここの事実ではなく、思考による想像を始める。それによって自分が意味を与えた世界を構築する。その世界の中に住んでいる―閉じこもっているのが人の現実なのだ。

最初の意味の創造の時点で手放してしまえば、その先の連続的な想像は生まれない。そういうことを発見して愉快になったので、ぼくはこの実験を続けることにした。足が床に着いた瞬間、口に食べ物を入れた瞬間、感情が湧いた瞬間、考えが浮かんだ瞬間、その先に生じる思考を切ったらどうなるのか? 思考は内面への閉じこもりだ。思考を揮発させると、全感覚が世界に向かって開かれる。

すべての音を聴く、あらゆるものをそのまま観る、触れたものと一体になる、味そのものと一体化する、自他の区別が無くなり、自己と宇宙は和解する。

一瞬のうちに、五感・六感は何億もの情報を受け取っている。それが視覚化できたら、世界は映画マトリックスの数列で埋め尽くされた壁のように見えてくることだろう。実際現象界は、絶え間なく変化し続ける情報の奔流なのだ。

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---日常に帰ってきて、この瞑想体験がどう生かされるのかが一番肝心なところだ。十数年を経て、今ぼくは再びティク・ナット・ハンに還ってきている。日常の瞑想。

今回はセンターでの体験しか書けなかった。最近はセンターには行かないけれど瞑想は日々の習慣になっている。日常に瞑想は欠かせないし、とりわけ人間関係において自分を整えるためには必要だ。

なぜそんなに長く坐り続けるのかといえば、らくらくと楽しく生きるため、幸せに毎日過ごすために他ならない。瞑想を積んでそうならないとしたら、何かやり方が間違っているのだ。で、じっさいぼくは瞑想を続けて生きることがますます楽しくなった。もちろん瞑想のせいばかりじゃないけれど、少なくとも長年やっただけのことはあると思う。

今年になって、ティク・ナット・ハンの新刊本(とはいえ原書は1990年刊)を翻訳する機会に恵まれた。現在これを書きながらも、その翻訳の真っ最中である。作業をしながら毎朝の瞑想を行住坐臥にするべく、再度工夫の最中なのだ。
posted by Dah at 00:00| ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | ☆相模平野だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
京都のヴィパッサナ・センター、ダンマバーヌに行かれていたんですね。私の勤務高校から10分のところにあります。私も、10時間の10日間瞑想合宿に行きましたよ。初日から、「耐えれるのか?」と思いが先走り、残りの日数ばかり数えてましたが、ヴィパッサナの練習の頃から、体が超リラックスして、強力な自律訓練法かなと思いました。ぶっだやヴィパッサナでいう微細な感覚・アニッチャ(無情)の実感や波動感覚とは、副交感神経が全身で優位になり、血行が盛んになったことだと感じましたが、どうなんでしょうか?とりあえず、12日目に下山し・下界に降りてきて、すぐに蕎麦屋へつれて行ってもらって、蕎麦前で一杯いただきました。と、また、覚りではなく、煩悩に逆戻りしたことでした。
Posted by 竹内好宏 at 2016年12月03日 21:54
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